東京医科歯科大学での学術顧問としての講演内容(失敗を逆転させて成功に変える2)
前回に続き、東京医科歯科大学での学術顧問としての講演の続きを書いておきたいと思います。
ハーバード大学でインストラクターという教員として働き始め、バイオバンクの仕事に取り掛かって3年の間はただひたすら前向きコホート内発生腫瘍の組織バイオバンク(PCITB)の立ち上げの仕事を黙々と続けるのみでした。その間、私を雇い面倒を見てくれた上司には感謝してもしきれません。
そして2005年には最初期の論文を完成させることができました。そのうちの1つの論文は最初の投稿先が受理せず失敗し、次の雑誌に受理されました。しかし、最初に投稿した雑誌の今のインパクトファクター(IF、引用回数で測った雑誌の影響度)は現在約5である一方、受理された雑誌の現在のIFは約30近くとなっており、結果的には最初の雑誌に受理されなかったことが幸いとなりました。
また、その後も最初に取得に成功した若手用グラントの期間が、若手にしては論文数がすでに多いという理由で、5年から4年に短縮されてしまい、1年くらいで大型グラント申請の準備をしないといけなくなりました。その結果、R01という最もスタンダードなグラントを2010年に一回目の申請で取得することができ、その御蔭で2015年にさらに大きな7年グラントをこれまた一回目の申請で取得することができました。若手用グラントの期間が短縮されたことが幸いしてチャンスを五月雨式に掴めたといえます。
その他にも、2012年疫学研究学会に提案した分子病理疫学のセッションの提案が採択されなかったことが、国際分子病理疫学学会の創設につながったり、2010年にアメリカ・カナダ病理学会(USCAP)という学会の若手研究者賞に落選して悔しい思いをしたものの、翌2011年に受賞者に選ばれたたおかげで、結果として2010年に提唱した分子病理疫学の宣伝に非常に効果的になったりしました。また、以前の記事で書いたように、若年性がんの論文でも、失敗がその後の一連の成功に変わった出来事がありました。
このように、失敗しても、それは失敗ではなく新しい幸運のチャンスと諦めずに進めばそれを成功に変えることができるというのが私の信念です。日本のキャリア形成においては、失敗のない無難な道を歩んできた人が、昇進などの面で有利に働くということが、今だに続いていると私は思います。その結果、リスクを取らないことが良しとされ、大きな挑戦をすることができなくなり、社会全体で大きな結果を出すことができなくなったことが現在の日本の停滞を招いているように思います。この風潮を何とか変えたいと考えています。
次回に続く