日本の教育3
今回は、大学に関する私の考え方を書きたいと思います。私が日本で違和感を感じてきたことの一つが、学歴(というよりむしろ大学名)至上主義です。大学入試でどこの大学に入るかということに社会の関心が高すぎて、大学で何をするか、大学卒業後に何を成し遂げるかということに重点が置かれていないように思います。テレビなどで、よく学歴を肩書のように紹介している場面を見かけます。その人を紹介するために学歴以外ないような雰囲気すら感じられ、逆に失礼だと思うのは私だけでしょうか。
例えば、灘中高から東大理三という私の学歴は、日本では典型的なエリートコースといわれています。しかしながらアメリカでやっていくにあたっては、日本のどこの大学を卒業したかなどはほとんど強みにならないといっていいでしょう。他方、医学部を出て医師免許を持っていなければ、アメリカではまた医学部生や大学院生からスタートとなりますので、その点はとても大切でした。そして、中高大と勉強を通じて培った力はアメリカでキャリアを切り開くための助けにはなりました。
私は社会でなにかをやり遂げるのに学歴それ自体は関係ないと言っていいと思います。ただ、大学入試を突破するための勉強をやり抜いた忍耐力、集中力、火事場の馬鹿力、基礎学力、教養を通じて得られる哲学などはその後社会で様々な困難に耐え、新しいものを生み出すための土台になるので、入試自体を否定するものではありません。ただ、若い頃の試験の結果が一生ついてまわると誤解させるような社会の風潮はよくないと思うのです。人生が何歳からでも挽回が効くような風潮の社会の方が、18-19歳の試験の結果がその後の一生に大いに影響するような社会よりも望ましいのではないでしょうか。その人物がどの大学を出たかよりも社会にどれだけインパクトを残せるかという中身を重視する価値観を持てるようにならないと、日本はどんどん沈没してしまうと思います。
私が日本を出てから20年以上の時が経過しましたが、大学名至上主義は変わらないどころか、中学受験などがますます過熱化しているという話です。他方で衰退する日本から抜け出すために海外志向も高まっているようです。日本でも海外でも高い学歴を得ることに大きな利点があることは言うまでもありません。しかし、これは日本だけに限りませんが、どうも学歴をつけることが目的となりすぎなきらいがあります。学歴は何かを成し遂げるための手段でしかありません。一流大学を卒業したからといって、それ自体は、何か世間に価値を生み出したというより単にスタートに過ぎないのです。そこから(あるいは在学中からでも)自分にしか出せない価値を社会でどう発揮していくかということが、最も重要なことです。もちろん、若い頃に自分が何をやりたいかなどはっきりわかっている方が珍しいので、目標はその時々で臨機応変に変えていいですし、そうしていくべきでしょう。重要なのはどこで勉強するのかより、何のためにその勉強をするのか、あるいは何をしたいかを見つけることであるということを、ここで改めて強調したいと思います。
特に日本では、どこの大学を出たかということで一流の会社に就職できるかできないかが決まり、一生が大学受験で決まってしまうような雰囲気がありました。新卒一括採用と終身雇用システムの弊害です。今は少しは流動的になったでしょうが、基本構造が変わっていないので未だに社会がガチガチに固まっているようです。一度失敗するとやり直しが効かないので自分のやりたいことにチャレンジする人が出にくく、みな同じような生活を送り、同じような勉強をして、同じように学校を卒業していく。こうなるとますます強烈な個性を発揮しにくく、新しいアイデアも出にくくなります。そうなると世間では結局学歴や会社名で個人を判断することになってしまうのではないでしょうか。それに(まさに私のように)枠に入りきれないはみだし者の潜在能力を発揮する場も創りだせなくなります。大学教育を考えるにあたって、まずはこのブランド志向の考え方を変えていかないといけないように思います。
それでは、勉強のみで評価する日本の大学入試のシステムはどうかというと、私はアメリカのように総合的に判定する方法よりも客観的でいいと思っています。ただ、そのために点数至上主義のような考え方が加熱して、受験戦争が早期化してしまうことで、創造力を培うことができる幼い頃の貴重な自由時間を勉強のみに奪われてしまうことが、社会の発展に役立つようなスケールの大きい人材を育成するためにプラスになるのかは疑問です。ですから、もちろん先程述べたような大学名信仰とも言える考え方と仕組みを是正することが前提です。
ただ、点数以外の方法で評価する場合、評価する側の力量も求められますし、選考にどうしても不透明さが残ってしまいます。また、勉強以外も評価項目に入れる場合、習い事などに投資して特技を習得したほうが有利になる場合が増えてくるとも考えられます。つまり親が裕福かどうかで子供の学歴が決まってしまう。そうすると、日本もその傾向は強まっていますが、アメリカのように教育格差がますます広がることにならないか、それを懸念します。アメリカの例をみても、ハーバードのような名門大学に入学できる人材は、勉強以外の経歴や特技もかなりの水準です。私の病院の研修医が、パーティーの余興で見事なラフマニノフのピアノ演奏を披露していたのを聞いて、アメリカのエリートはこういうものかと思ったものです。貧しい中からあらゆる努力を重ねて奨学金を得て名門大学に入学する人もいますが、裕福な家庭に生まれて恵まれた環境の中で育ち年間数百万円の学費を満額で納められる人のほうがチャンスは多いと思います。しかもまずいことに多くのそういう恵まれた人は、自分の裕福な恵まれた環境の恩恵よりも、自分の努力のたまものにより、よい仕事を成し遂げていると本気で思っています。そういうわけで、大学入試に限っていえば、私は原則としては勉強だけで決める方が客観的でかつ平等で良いと思っています。
次に、大学院などの専門教育について書こうと思いますが、長くなってしまったので次回にします。
(次回に続く)