日本の教育2
それでは、旧来の日本の教育をどう変えたらよいのか。こちらに留学や訪問してくる日本の若者との交流を通じて、日本人に足りないと私が考えていること、それを教育でどう変えていくことができるかを思いつく限り述べたいと思います。
前回の記事で述べたように、日本式(詰め込み)教育にまったくメリットがないというわけではありません。グローバル教育と名付けて、旧来の教育の良い点を捨ててしまうのはもったいないことだと思います。有名な改悪の例はゆとり教育でしょう。この失敗と反省については皆さんよくご存知だと思うのでここで述べることはしませんが、本質を離れた表面上の教育改革をしてしまうと、国の良さをなくしてしまいかねません。そのくらい教育というのは大切なことです。ですから、以下に述べることは、人材の質を担保するためにある程度の学習をした上での話であるということを念頭に置いていただきたいと思います。
まずは個性を生かして得意なことを更に伸ばせるように、もっと柔軟な教育を行うことが挙げられます。私は学校生活は勉強だけではなく、社会の色々なルールや人間関係を学ぶ場所だと思っているので、まず年間にわたり固定化されたクラスをやめてはいかがでしょうか。よくできる子なら1学年か2学年進めるとか、得意が苦手かによって教科ごとに学年を変わるとか、一人一人の生徒の個性に合わせられる柔軟な制度になるといいと思います。その方が同じ教室に様々な年齢の子が集まることになります。また、発達がゆっくりなので学年を遅らせるということは、日本人の感覚では恥ずかしいことになりかねないと思うのですが、ぜひ可能にしてほしいと思います。例えば、早生まれの子は年齢が小さいうちは同学年の子と発達具合が違いすぎて学習面や運動面で引けをとって、自信をなくしてしまうことがあります。自信をなくすと下手をすると一生その傷を引きずることになるので、それなら、自分の発達に合った1学年下に入ろうという考えは自然ですし、アメリカでは普通に行われていることだと思います。このように同じクラスに様々な年齢の生徒がいることで、他人と比べるというより、自分自身の学習進度により集中できるのではないかと考えます。まずは同年齢の子供が一斉にスタートを切って、同じような授業で学ぶのが当たり前というのではなく、個人が発達に合わせた学びを自由に決定できる仕組みと空気を作っていくことが必要でしょう。こういう固定化された学年から柔軟なクラス分けを可能にするためには他人と比較しすぎる国民性をまずなんとかしないと実現しにくいとは思いますが、この国民性自体みんな横一線の生徒時代から培われている気がします。
日本社会では同調圧力が強く、出る杭が打たれやすいのも、この学校時代の横一線の過剰な連帯感と学年による縛りが一つの要因であると私は思っています。これは、勉強面だけではなく、部活でも徹底されている考え方でしょう。もともと社会がそういう状況を作り出そうとしてきたから教育がそうなったのかもしれませんが。自分と同じ立場の人は自分と同じ状況であるべき、逆に少しでも目上の人は絶対だから盲目的に従うという考え方が、人と違う個性を潰してしまうのです。大人になってからも同学年だから、同期だから、1年上の先輩だからといって序列を気にしすぎることに私はずっと違和感を感じてきました。私が所属していた当時の大学の医局などはその典型例でしょう。まるで江戸時代です(私は江戸時代が好きではありません!詳しくはこちらの記事を見てください)。年齢や職位による階層構造が強すぎて、上の人に言いたいことを言えないので、社会が硬直化するのです。昔よりましになっているのかもしれませんが、現在もこの風潮は大きく変わっていないように思います。また、私が日本社会で好きでないことの一つに、立場の上の人が妙に威張ることがあるということです。日本語では使う言葉も立場によって全然違います(あ、きみそれやっといて VS 誠に恐縮ですが、それをやって頂けないでしょうか)。これでは下の立場の人が自由に意見することもできません。威張る人はアメリカにもいなくはありませんが、日本と比べると偉ぶる人が比較的少ないですし、立場の上下による言葉の違いもそれほど大きくはありません。これはアメリカのいいところです。
個人的には、こちらに留学してくるポスドクや学生の多くが、私に対して妙に気を使って何も意見を言わないことが多いのがとても気になります。私のラボにいない人で自分から積極的に私に連絡してくる人、会いに来る人はほぼ皆無です。私がこちらに来て武者修行してるときは、日本人の教授の方に積極的にコンタクトして自分から会いにいったものです。現在は私が教授の立場になっていますが、日本人の若武者からコンタクトがあることは稀です。もちろん断られるケースを恐れてのことかもしれませんが、そんなことは私自身は全く意に介せず、せっかくなので、会うチャンスを作らなければ損だと思い、積極的に連絡をして、意見を聞きに行きました。学会とかでも日本人同士で固まって、大御所に話しかけるチャンスを自ら閉ざしている人をよく見ます。せっかくチャンスがあるのにもったいない。大御所と思わず、同じ一人の人間だと思えば何も恐れることはありません。これも日本では目上の人(先生、部活の顧問、先輩、など)が絶対的存在で、機嫌をそこねたらまずい、おかしいと思っても逆らわない、というのが、幼少時・生徒時代からすりこまれているのではないかと思います。もし機会があるのなら、自分が留学する研究室以外でも、日本人教員に限らず、重要人物に挨拶して知り合いになっておくことに越したことはありません。何かのときに力になってくれるかもしれません。やはりここでも、目上の人とは対等に話ができないという考え方が悪い影響を及ぼしているのではないかと思うのです。立場が上の人にフラットに意見をするということがもっと普通にできないと、良いアイディアや意見が社会に反映されることがありません。そして、ここアメリカでは意見しないことは、いないのと同じと扱われてしまいます。もちろん、目上の人に限らず他人に敬意を払うことはどこの社会でも必要ですし、最低限のマナーは守る必要がありますが、それと自分の意見を自由に述べることは別の話です。
私がもっと学校で教えるべきと思うのは、相手が誰であっても、物怖じせずに上手に自分の意見を述べること、相手の意見をしっかりと聞いた上で議論することです。日本人は議論というとどうしても喧嘩や言い合いを思い浮かべてしまうのか、そもそも議論をすることを好まない傾向があると思います。また、先程述べたように目上の人への敬いがすぎるために、議論を持ちかけることすらできません。これに加えて、自分の考えていることを上手にプレゼンテーションできないのもまた問題ですので、併せて教えるべきでしょう。また、謙虚すぎて自己アピールが苦手な人が多いので、変えるべきでしょう。こちらに留学してくる人たちと接する中で思うのは、黙々と仕事はしっかりとしており、他の国の人に比べても遜色ないどころかかえって優秀であるのに、黙っている人が多いということです。これは特にアメリカでは、他人に利用はされるけれど、かなり損をすることになります。アメリカでは、大したことをやってるわけでもないのに自分を大きく見せる人が多くて逆に困ることもあるくらいで、それはそれで大きな問題なのですが。日本人が謙虚さを発揮しすぎて、正当な評価をされないのはとても悔しいことです。また、この問題は、単に自己アピールができないというだけでなく、そのための英語力がないという問題とも密接に関連してくるので、英語を自由自在に扱い、自己表現するというスキルをかなり上昇させていかなければなりません。この問題については英語教育の記事でひたすら述べているので詳しくはそちらを読んでいただきたいですが、中高6年間(今は小学校から)あれだけ必死に英語を勉強して、ここまで英語ができないのは日本人だけといっても過言ではありません。世界的には英語はできて当たり前で、特殊なスキルではありません。
(次回に続く)