日本の教育1
みなさま、新年あけましておめでとうございます。私は記事に書いている通り、毎年1月1日には一年の目標を立てます。ブログに関しては、最近、多忙にしておりあまり中身のある記事を書くことができていませんでしたが、今年はもう少し頑張って更新していきたいと思います。
さて、今回は新年の話題にふさわしく、日本(とアメリカ)の教育についてです。以前、このブログで英語教育について書いたところ、思った以上の反響をいただきました。それだけ英語教育に対する関心が高いということでしょう。そこで、今度はグローバル社会で活躍する人材の育成のために教育全般についての私なりの考えを書いていきたいと思います。私もアメリカに来て長いため、日本の教育の現状について完全に把握しているわけではない点はご容赦ください。
まず、最初に強調したいことは、日本の平均的な詰め込み式の教育のすべてが悪いとは言えないということです。よく、グローバル教育という話になると、アメリカの大学が如何に優れていて、日本はだめだといった文脈で議論が行われていると思うのですが、果たして本当にそうでしょうか?確かに、ハーバードを始めとするアメリカのトップレベルの大学で行われている教育は素晴らしいですし、イノベーションを起こしているのはアメリカ式で教育された人が多いのかもしれません。
一方で、それはアメリカの良い面だけを切り取ってみているということを皆さんにお伝えしたいと思います。アメリカに住んでみるとわかりますが、地域間の教育格差がとても大きいのです。エリートが多く住んでいる北東部とその他の地域だけではなく、同じ地域の中でも教育格差があります。例えば、公立学校の水準が全米トップクラスのマサチューセッツ州でも、公立学校の質が高い地域ととそうでない地域があり、市の境界を隔てただけで同じぐらいの大きさの住宅価格が数千万円も違うということが起こります。これはすなわち、家庭の経済状況で受けられる教育の質が違ってくるということです。もちろん、公立学校が良くない地域に住んでいても年間数百万円を出して子供を私立学校に通わせることもできますが、やはり経済格差が受けられる教育に大きく影響するのです。もちろん、生まれながらの環境が悪くても、あらゆる抜け道を探して必死に努力すれば高等教育を受けられないわけではありません。しかし、私の感覚では格差を克服するために日本より遥かに高いハードルを超えなければならないのがアメリカ社会であり、その結果格差が半ば固定化して富めるものはさらに豊かになっています。先日の大統領選でも問題になった社会の分断の根っこはこのあたりにあると私は思います。これがアメリカの現状です。
日本では多少の地域間格差はあるにせよ、公立学校で受けられる教育の水準にアメリカほどの格差があるとは思えません。もちろん、中学受験などをするためには塾の費用が必要だったり、経済力が学力に影響してくるのは日本も同様だとは思いますが。そして、平均を求める詰め込み教育についてですが、これについては賛否があるものの、日本では社会の隅々まで、比較的しっかりと教育が行き届いた人が多いなということを感じます。この教育システムは、明治維新後の富国強兵を目指していた頃からの、国のための戦力となる均質な人材育成法の名残だと思います。さらに遡れば江戸時代の寺子屋教育からかもしれません。この均質さが日本人には当たり前すぎて、ありがたさを実感できていない点だと思います。
アメリカに住んでいると、日常生活において日本では考えられないようなトラブルが連発します。修理を依頼しても時間通りに来なかったり、はたまた勝手にキャンセルする。請求書の計算を間違えていたり、適当な工事が行われていたり、郵便で間違った荷物が配達される、など。挙げればきりがありません。これは、細部を気にしないといった国民性もあるかもしれませんが、日本ほど学校できっちりと勉強するということ、嫌なことを真面目にコツコツやっていくことの大切さを国民に広く教育できていないということも一因だと私は思います。教育だけでなく、派手なことや大金を稼ぐことを重要視しすぎるあまり地道に真面目に働くということを社会が評価しないせいもあると思うのですが。いずれにせよ、ディスカッションとかプレゼンテーションとかいった高度なことをする前の段階として、基礎学力と、学力をつけるための地味な努力を通じて得られる忍耐力は社会で仕事をするための基礎になると思います。つまり、真面目にコツコツやることを良しとした日本式の詰め込み教育も悪いところだけではないということが言いたいことです。
では、日本式教育で弱いところはどこか。これは、よく言われているとおり、何かが突出してできる子、発達の凸凹がある個性のある子を活かしきれないところでしょう。手前味噌で恐縮ですが、ここで私の小学校時代の話をしたいと思います。正直私は小学校時代は授業の進展がずいぶんと遅いなと感じながら日々を過ごしていました。私は小学生にしてはおそらく生意気だったので、高学年のときに担任に目をつけられ、たいした理由もないのにぶたれたりしました。理解が早く、先生に議論をふっかけるような突出した子の芽を潰すような、居ない方がましな教師がいたわけです。今になって考えると、背景には、学校では先生が絶対的な存在で生徒はみんな同じであることが良いことで当たり前であり、周りの空気を乱すような行為は推奨されないという教育現場、そして社会の常識があったと思うのです。私の場合は幸い自分をもっと正当に評価してくれる先生もいたため、自信をなくすとか、人生を狂わされることもなかったです。しかし素質があるなしにかかわらず、こうした些細なことでも教師が子供の人生を悪い方に変えてしまうこともあるでしょう。そんな中でも私の親はぜんぜん教育熱心ではなく、私を塾に通わせる気もなかったのですが、小学校6年生のときに、友達が塾に行っているというので、ある塾の試験を受けることになりました。入塾テストの日も母親が危うく忘れかけていたのを、「あ、そうや、今日試験やん」とギリギリで思い出して受けることになったくらいです。そこでいい成績を取ることができて塾長に目をかけられ、その塾に前からいた学年でトップの生徒3人と一緒に灘中を目指すことになりました。それからは目標をもって勉強するのがとても楽しく、運よく灘中に1年未満の勉強で合格できました。これはすべて偶然の成り行きで、人生が大きく変わったと思っています。幸い、灘中高では制服も校則もなく比較的自由な校風が私に合っており、大切な青春時代に個性を否定されることもなく、良い学生生活を送ることができました。その後の人生でも種々のターニングポイントがありましたが、総括すると薄氷の上を歩くような人生でしたし、その一番最初の分岐点が中学入試でした。私の場合は偶然ラッキーにも、自分に合う環境に中学生のうちに潜り込むことができました。
自分の話が長くなりましたが、要は、私のような例だけではなく、何かが突出してできる子、あるいは一つのことに優れすぎて他のことが苦手な子、そういう人材を日本の教育では伸ばしきれないことは事実でしょう。最近は変わったのかもしれませんが、日本の教育システムでは何事も満遍なくできる人物を育成しようとしているのですからしょうがありません。アメリカでは飛び級をすることも、逆に進学を一年遅らせることもできますし、本人の個性や発達に合わせたやり方を選べるのがいいところだと思います。大学入試の際も、トップクラスの大学になればなるほど、勉強がよくできるのは当たり前で、他の強みを持っている人材が求められます。大学入試についての私の考えについては後述しようと思いますが、個性を伸ばすことができるのはアメリカの教育の良い点だと思います。
次回に続く