長期的な科学の発展のための投資

最近大切な研究費申請の締め切りや論文投稿、改訂が重なり、しばらく更新が滞ってしまいました。

私が以前から繰り返し述べているように、現在の科学研究には短絡的な研究成果を追求せざるを得ない悪しき潮流が生まれています。

近年のアメリカでは、生物医学分野の研究予算が伸び悩む中で、博士号取得者が毎年参入して研究者間の競争が激化したことがまず一つの大きな原因です。それとともにオリジナリティのない研究者、短期的に予測可能な成果がすぐ出そうな研究しかしない研究者が増加しました。研究者が担う研究費の審査(ピアレビュー)の質もそれとともに徐々に低下していき、独創性の低い、すぐに結果が出そうな研究でないと研究費が取りづらい傾向が生み出されてしまいました。今の時代、流行りの研究にはみな何でも飛びつきます。このように誰もが5年後に成果が出そうな、予測可能な研究ばかりをしていては、大発見など生まれようもありません。

私の持論ですが、研究者は社会のサポートを求める立場である以上、自分が研究者として存在しなかった場合と自分が研究者として研究する場合で、世界がどう違ってきたか、あるいは将来違ってくるか、いつも自問自答するべきだと思います。流行りの研究に飛びついてばかりでは、自分はその他大勢と同じで、自分の研究で世界に変革をもたらすことはできません。健全な科学の発展のために、この潮流が是正されることを強く望んでいます。

私の専門とする癌研究の分野でも短期的な成果を求める傾向は顕著です。これもこのブログで何度も言っていることですが、癌の分野では治療に関する研究ばかりが行われて、予防についての研究はなかなか進みません。医学の役割として目の前の患者さんを救うことが超重要なのは言うまでもありませんが、癌の原因を解明しない限り、癌とのいたちごっこは続きます。癌は基本的には一度発生すると手術で完全に取り除かない限りなくならない性質のものだからです。癌は生活習慣や遺伝など様々な因子が複雑に関わり合った結果として発病するため、因果関係を解明するためには、長年(例えば数十年)の調査を要します。

そんな中、私の分子病理疫学(MPE)研究でも用いている大規模集団は、10万人以上の集団の食生活、喫煙習慣などを40年もの長期間に渡ってフォローアップし続けている点では大変すばらしい取り組みだと思います。アメリカの科学研究の素晴らしさは、一見地味であるが、宝の山であるこうした大規模集団に長年資金を投入し続けられる点にあるでしょう。しかしながら、この大規模集団ですら癌を含めたあらゆる疾病の原因究明のためには不十分であると考えられます。

例えば、私の専門分野である大腸癌では、20代から40代の若年層での発症数の増加が1980年代ごろから始まり、1990年代からは世界中で急速に進行しています。この傾向は特に先進国で加速し顕著となり、途上国でも遅れてその傾向が出てきていますが、はっきりした原因は未だに分かっていません。状況証拠からはおそらく、第二次世界大戦後、1950年代頃から始まった人類にとって未曾有の急激な生活環境の変化に胎児期・乳幼児期・小児期に暴露されたことが、20年以上を経て若年層の癌の増加に寄与しているのではないかと考えられます。大腸癌のみならず、子宮体癌、甲状腺癌、骨髄腫、膵臓癌、胆管癌、胆嚢癌、腎臓癌、食道癌も同様に若年層で、しかも世界の様々な地域で増加傾向が見られますが、原因は未だに分かっていません。

こうした若年性癌の増加の原因究明のために、現在では主として病気を発症した人の集団の食生活・習慣などの環境要因を後向きに調査をして、病気を発症していない人の集団との違いを比較する症例対照研究が行われています。少し専門的な話になりますが、疫学的には症例対照研究の信頼性は低いとされています。発症者からの回答のみならず、対照群の選び方などでどうしてもバイアスがかかってしまうためです。誰が乳幼児期の食事や生活習慣を正確に覚えていますか?誰が胎児期の母親の食事や生活習慣を正確に覚えていますか?こうした情報は逐次蓄積していかないと正確性は担保できません。

おまけに症例対照研究は、1つの研究集団で症例として集めた、たった1つの疾患の研究しかできません。しかしながら短期的に結果が出やすいので、研究費も取得しやすいのです。恐らく、世の中の大多数の疫学研究は症例対照研究であると思われます。かかる費用は個々の研究集団では少なくてすみますが、有病率が比較的高い慢性病100種類を調べるのに最低100個の研究集団が必要となり、結果として全体的には費用もかさみます。エビデンスの信頼性、長期的な人類への貢献度をも考慮すると、はっきり言って費用対効果は低いと言わざるを得ません。

それでは、疫学的により信頼性の高い、大規模集団を使った前向きコホート研究(病気になる前から大人数の生活習慣、疾病の発病等を定期的にフォローアップして観察する研究)を行うのはどうでしょう。特に若年性の癌などの原因究明には妊娠中の母親の食生活から、新生児の時からの便・血液など、あらゆる因子やサンプルを数十年フォローアップして研究する必要があるでしょう。私が参加している大規模集団でも、幼少期からのデータはありません。このような、いわばライフコースコホート研究・大規模集団を作ったとして、データの収集にはとてつもない額の投資が必要で、更に何らかの研究成果が出るのは、早くて数年先、多くの病気を調査できるのは数十年先になってしまいます。昨今の短期的な成果主義の潮流にみあう短期的成果を出すことは困難です。

ただ、このような大規模集団に投資をして疫学的に解析することで、長期的には若年性の癌だけでなく、その他の病気、例えば認知症、心臓病などの様々な病気の要因を明らかにすることが期待できます。先ほどの例えで挙げた100の慢性病にしても、集団が大きく発症率がある程度高ければ、たった1つの集団を使って100すべての病気を調査できます。更に、若年から死ぬまでの様々な病気だけでなく、学校での成績、成人してからの健康・寿命・認知機能、仕事・収入・社会環境・家庭・不妊などについてのあらゆる疫学研究ができます。これらの長期的成果を考えると投資に値する成果をもたらす、価値のあるプロジェクトと言えます。また、分子病理疫学(MPE)と組み合わせることにより、疾病の原因の解明に寄与できれば、超長期的には、健康寿命を伸ばしていろいろな病気を予防することができる可能性もあります。病気の予防のために必要な知見が得られることで治療費の削減などの効果をもたらすでしょう。

したがって、各々の研究者同士が小規模で短絡的な研究のための研究費の取り合いをするくらいなら、こうした長い目で見た研究への投資が進むことを希望したいところです。しかし、このようなライフコース・コホート研究が世界的にみても圧倒的に足りていませんし、実現するための巨額の研究費を取得することも至難の技です。私は日本が世界に先駆けてこのような研究を開始すれば、この分野で成果を残すことができると考えています。疫学研究では地道にコツコツと地味なデータを集める作業が必要となり、正確さがデータの質に直結してくるのですが、真面目な日本人には向いている研究ではないでしょうか。また、欧米の集団と人種間の差異を比較できるという意味でも、健康に良いとされる日本人特有の食生活の効果を検証するという意味でも、とても意義のある研究だと思います。

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