賤ヶ岳、小谷城、姉川を巡る

先月の京都での講演前に、以前から行ってみたかった戦国名所を巡ることにしました。米原を拠点として、1日目は滋賀県北部にある賤ヶ岳、小谷城、姉川を巡り、2日目は関ヶ原を巡る2日間の旅です。

米原からJR北陸本線に乗り、まず賤ヶ岳に向かいました。ご存知のない方のために、少し説明しますと、、

賤ヶ岳は安土・桃山時代、羽柴(後の豊臣)秀吉と柴田勝家の天下分け目の決戦の舞台として知られています。眼下に望む余呉湖と賤ヶ岳周辺で無数の砦が築かれ、北から切り込んできた佐久間盛政隊に対して、中川清秀討ち死にするも、秀吉が大垣からの大返しで、電光石火の反撃。そして前田利家の戦線離脱、柴田軍総崩れ。歴史を決定づけた戦いの一つです。この戦いで活躍した7人の子飼いの武将は賤が岳の七本槍と称されたと聞きます。

朝10時過ぎに余呉駅に到着し、徒歩でまず余呉湖の湖畔を歩き、中川清秀の墓参りをしました。それから賤ヶ岳山頂を目指します。賤ヶ岳は標高420Mですが、思ったより急勾配で高い山でした。徒歩およそ1時間半で山頂に到着。頂上からは余呉湖と琵琶湖の素晴らしい眺めを楽しむことができました(一番上の写真です)。

ここは特に観光地化されているわけではなくもったいないなと思うのですが、景色を眺めながら戦国時代の情景に想いを馳せる至福のときであると共に、戦没者への鎮魂を捧げる時でもありました。

登山して来たのと反対側の木之本方面に下山し、次は木之本駅からJR北陸本線を米原方面に戻り河毛駅で下車後、レンタサイクルを借りて小谷城を目指します。

小谷城は標高400Mの山城で、戦国浅井家3代の居城として知られます。難攻不落を字で行く空中要塞であり、曲輪(くるわ)と堀切を防御施設として兼ね備えています。

小谷城の麓に到着して急斜面を見上げると、こんな城をどうやって攻めるのか、途方に暮れそうでした。そんな難攻不落の城攻めをやってのけたのが、羽柴秀吉隊でした。秀吉躍進のきっかけになったのが小谷城攻防戦でした。小谷城を実際に目にすると、秀吉の偉大さが肌で感じられました。

小谷城まで登り、そして降りて来るだけで1時間半はかかりました。麓には資料館がありとても楽しめました。

次に、自転車で姉川を目指しました。20分ほどで姉川に到着です。

姉川は琵琶湖に注ぐ川としては比較的大きな川として知られており、戦国期を代表する決戦、姉川の戦いの舞台です。この戦いでは、姉川の北に浅井・朝倉連合軍、約2万、南に織田・徳川連合軍、約3-3.5万が対峙しました。姉川の南には山城として知られる横山城があります。まず、織田・徳川連合軍は横山城攻防戦をしかけました。その横山城を後詰めする(籠城する味方の援軍として出陣する)ために出陣せざるをえなかった浅井軍をおびき出すためだったと言われています。後詰をしなければ、横山城にいる味方が寝返り、それに応じて次々と味方の寝返りの連鎖が起こる可能性があったので、後詰やむなしの状況でした。姉川決戦で大勝利の織田・徳川連合軍でしたが、敵が難攻不落の小谷城に撤退すると、それ以上の深追いはできませんでした。

姉川の近くには国友という有名な鉄砲生産地があり、資料館もあるようでしたが、残念ながら今回は時間切れで、次回の楽しみとなります。

続いて河毛駅から長浜駅に電車で移動しました。長浜は琵琶湖に面した交通の要衝で、秀吉が整備した城下町です。夕食前に長浜の旧街道を散策しました。いろんな店がすでに閉店してましたが、昔ながらの街並みを楽しみました。

前の記事にも書きましたが、私が戦国時代が好きなのは、代々続く身分や家柄に関わらず実力がものをいう時代だったからです。低い身分から下剋上を成し遂げて天下を統一する、そんな夢のような時代だったのです!そして、そこで名をはせた戦国大名は武力だけではなく、知力にも優れており、群雄が割拠してせめぎ合った時代に想いをはせるだけで心が踊ります。そんな貴重な場所が残されているのに、多くの場所ではPRがうまく行っていないのが残念です!!

こうして、大満足の戦国名所巡りの1日目が終了しました。ちなみに、私はJRを利用する際はネットではなく昔ながらの時刻表の冊子でスケジュールを組むのが好きです。北陸本線は本数が少ないため、この時刻表に助けられました。

次は、関ヶ原を目指します。

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