分子病理疫学(MPE)4(微生物学MPE・続き)
細菌Fは大腸癌のあるサブタイプの組織中に多く存在することは、私のラボや他のグループの研究結果からわかっています。この細菌Fが存在する大腸癌のサブタイプは大腸近位部、特に盲腸によく発生する傾向、遺伝子変異が大変多い傾向、癌ステージが高く予後が悪い傾向があります。
細菌Fは癌に対する免疫応答を抑制して発癌を促進することがモデル動物を用いた他のグループの研究成果からもわかっていました。私のグループでも大腸癌内の細菌Fは大腸癌内で癌の除去・制御に働くと考えられる主要な免疫細胞、Tリンパ球の数と逆相関することを発表しました。
そこで私はMPEの特長を用いて「どのような食生活が細菌Fを有する大腸癌の数を増減させるか」という問いを健常人の集団を用いて検証するため、私達が有する約13万人もの食生活や喫煙習慣等の生活習慣を30年間以上もの間フォローした集団のデータを用いて、その集団の中で発生した約1000人の大腸癌の組織解析データを収集し分析しました。
その結果、赤身肉・加工肉中心のいわゆる西洋式の食生活をしている人の集団で癌組織中の細菌Fにより引き起こされる大腸癌のリスクが高くなること、逆に、いわゆるPrudent Diet(賢者の食)という野菜、豆、全粒粉、果物中心の繊維質豊富な食事をしている人は細菌Fにより引き起こされる発癌のリスクが低くなるという仮説を裏付ける研究成果を得ることができました。
こうした研究成果は健常人を大規模に集めた前向きコホートを長年フォローアップしたデータを解析しなければ出すことができません。
私が研究者として参加している看護師健康研究(Nurses’ Health Study)はなんと、1976年から12万人もの女性集団をフォローアップしていて、とても信頼性の高いデータを提供してくれています。もう一つの医療従事者追跡研究(Health Professionals Follow-up Study)も1986年から5万人の男性集団をフォローアップしています。フォローアップとは、数年ごとに質問票を送付・回収して病気の有無や生活習慣について調査することで、大変な手間と労力を要します。
大規模健常人集団を長年フォローアップすることなく、ある時点に研究対象の疾病をすでに持っている患者を集めた集団と、それと比較対照するための健常人集団を使う患者対照研究によって、似たようなデータを比較的短期間で得ることも可能です。
しかしこのような患者対照研究においては前向きコホート研究に比べて様々なバイアスに注意する必要があります。同じような規模・結果の場合、患者対照研究によるエビデンスのレベルは、前向きコホート研究からのエビデンスほど高くありません。
前向きコホートのもう一つの大きな利点としては、長年のフォローアップ中に集団内に様々な疾患が発生するので、一つのコホートで数多くの病気の研究ができることです。先ほどの看護師健康研究においては、大腸癌をはじめ、乳癌、卵巣癌、子宮癌、肝臓癌、皮膚癌、その他の種々の癌の研究が行われています。癌以外にも、糖尿病、心臓病、高血圧症、高脂血症、脳卒中、呼吸器疾患、腎臓疾患、など研究が行われている疾患を数えるときりがありません。
1970年代にこの大規模前向きコホート研究をデザインして実際に始めた先達者の努力に私は敬服します。患者対照研究は比較的簡単にデザインし実行できる反面、研究対象はその患者集団の持つ疾患にほぼ限定されてしまいます。どちらが長期的な視点で見て、費用対効果が大きく、人類の役に立つか誰でも簡単にわかるはずです。
疫学教育を受ければこうした研究デザインの長所・短所や、統計学手法、それによる研究データの信頼性について詳細を学びます。以前も述べたとおり統計学について知識のない科学者が統計を用いて研究成果を発表することは科学界にとって憂慮すべき事態です(統計学についての記事)。
何れにせよ、大規模前向きコホート研究に、微生物学とMPEの手法を使って信頼性の高い結果とエビデンスを提供した我々の研究は極めて異例でユニークであると考えられています。この結果はニュースサイトなどででも取り上げられました。https://www.medicalnewstoday.com/articles/315465.php
繊維質豊富な食事をしている人の大腸癌のリスクが低くなるようだというエビデンスは従来型の一般的な疫学による研究成果から得られていましたが、その信頼性はとても弱いものでした。しかし私の微生物学MPEの研究によって食生活が実際に腸内細菌に影響して癌を引き起こすという癌の発生機序についてのデータを加味したエビデンスが得られたのです。
また、これは細菌Fに着目した研究成果ですが、他の細菌と生活習慣と発癌の影響を調べることもできます。MPEが複雑な因子の絡み合う癌の原因究明に役立つことがわかっていただけると思います。
以前に述べたように、癌は一度できると外科手術ですべて取り除かない限りは根治が難しい疾患です。したがって、癌予防がとても重要になってくるのですが、MPEはこのように癌予防にとても重要な知見をもたらすことができます(癌予防についての記事)。
私のグループだけでなく世界規模でMPE研究を行うことができれば、より多くの知見が得られると思いますが、残念ながら他のグループで同様の研究成果を出しているところはまだまだ少なく、私のグループが世界の先頭をぶっちぎりで独走している状況です。もっとMPE研究が広まっていくことを期待します。