日本からアメリカへ2

前回の記事から大分時間が空いてしまいましたが、前回述べたように、私は1994年4月から東京大学大学院を休学して在沖縄米国海軍病院でインターンとして1年間の臨床研修を始めました。米国医師国家試験(USMLE)の受験勉強と並行して米国の病院環境と英語に慣れる為でした。

東大大学院の休学は単なる休学でではありません。途中で講座を抜け出した者にすんなり帰る場所など期待できるはずもなく、実質的には勘当同然の片道切符でした。私は何としてでも翌年渡米して病理科医師になるという決意をしたのです。

なぜこのような決断ができたのかと思われる方もいるかもしれません。それぐらい私が所属していた病理学教室の中で何年も過ごすことが、自分にとっては我慢できないことと感じていたのは確かですが、私はあまり先々のことを心配しても無駄だと考えるタイプなのだと思います。まあなるようにならあ、の心境です。

沖縄に着任してからは、目の前の米国医師国家試験(USMLE)突破に向けて課題を一つ一つこなしていくことに精一杯で他のことを考える余裕がなくなりました。

自分にとって違和感があるのは、医学生だけでなく日本人の殆どが既存のレールの上で自分のキャリアを含めた物事を考えていることです。確かに、固定概念を捨てて未開の道を行くことにはリスクが伴います。安定が良いという考えも理解できます。日本社会のあり方自体が、型はずれで自由な生き方にどちらかというとあまり寛容ではないこともわかります。

しかし、他人と同じことをするだけでは、いつもパイの奪い合いとなり、いつも他人が作った土俵で競争しなければならなくなります。社会の大多数が現状維持を良しとする人で溢れていては、社会は発展せず、停滞あるいは衰退する一方ではないでしょうか。

仕事で、つまり研究で、私の目指すところは、他人と違うことをするということです。私は今尚それを続けようとしています。そうすれば、他人との競争をせずにすみます。孫子の兵法にもありますが、戦わずして勝つのが最善なのです。あるいは、戦うにしても自分の土俵で勝負することが可能になる、つまり戦う前に勝負をつけることができます。

我々が小学生の時は将来の夢として、プロスポーツ選手、パイロット、歌手、俳優、女優、学者、医者、歯医者、看護師など、みんながそれぞれの夢を表現していたように思いますが、現在では、小学生の夢として、普通の安定した職種が上位にくるそうですね。日本をもっと多様性に寛容で夢にあふれた社会にしたいものです。そのためにこのブログを続けています。

さて、在沖縄米国海軍病院では私の他に5人の心強い仲間の同僚日本人インターンと仕事を始めました。皆の動機も様々で、でもみんな日本人医師が通る通常のレールを外れているというのは一致していました。

それから1か月もしないうちに私以外の1人の男性が辞めて、私を入れて計5人の中で女性4人と男は私だけという中高男子校だった私には今までに経験の無いうれしい(?)状況となりました!1人辞めた分は残り5人の仕事量も増えましたが、全員で一緒に頑張ってのりきりました。その元同僚たちとは今でも連絡を取り合っていて、5人のうち4人は今でも米国で医師として仕事をしています。

沖縄着任後すぐに4月から仕事の合間をぬって週末も必死で米国医師国家試験(USMLE)の試験勉強をしました。そして6月にステップ1、8月にステップ2、9月にTOEFLを受験して、全て合格点を取り、米国での病理科研修プログラムへの応募資格を得ました。

その後9月にマッチングプログラムに応募、10月には全米で約70か所の病理科研修プログラムに応募書類を送付し、そのうち11か所から面接の通知を得ることができました。(次回へ続く)

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