日本からアメリカへ1

私は灘中学校・高等学校を経て東京大学理科Ⅲ類から医学部医学科に進学しました。大学入学までのことはまた別の機会に書きます。東大に進学して教養課程の間はあまり勉強せず、オーケストラ部に所属してチェロを弾いたり、卓球部に所属したりしていたのですが、元来一匹狼で群れるのが苦手なので、青春を謳歌していたわけでもなく、医学部の同級生は私のことをちょっと(かなり?)変わった人だと思っていたでしょう。当時、この生まれ持った性格は少々コンプレックスでもありましたが、米国で未知の挑戦をし、批判にもめげずに新分野を開拓する際に大変なアドバンテージになりました。

良くも悪くも個性的で自己主張があり我が道を行く私にとって、悪目立ちせず周りに合わせ、空気を読んで、それがベストではないと知りつつも、上司の機嫌を伺うことが良しとされる日本の組織風土が肌に合うはずもありません。皆さんもご存知だと思いますが、日本の医学部というのは、江戸時代からの古き良き(悪しき)日本の組織がそのまま生き残っている場所でした。こうしたことから、「ここは自分のいるべき場所ではない、抜け出さなければいけない」と感じるようになったのは言うまでもありません。しかし、当時は自分が米国で働くことになるとは想像もしていませんでした。

さて、医学部で専門分野として私が選んだのは病理学です。その理由は治療や診断と効果の因果関係がはっきりしないことも多い臨床に比べて、病理学では実際に病変を目で診て診断を比較的論理的に導き出すことができ面白いと感じたからです。病理学の一分野の病理診断学は血液や組織などの患者からの臨床検体を解析して人間の病気を診断する学問なのですが、特に癌治療の進行度の判定や治療効果の評価等において大きな役割を果たしています。私は医学部の後期に病理診断学の面白さを実感し、将来は病理学を専門とすることを決意しました。

医学部卒業後すぐの1993年に東京大学病理学第一教室の大学院生となりましたが、すぐに大学院生としての研修生活が物足りず、将来の展望がないと感じるようになりました。振り返って考えるとこれも元来の私の性格や考え方が日本の組織風土に全く合っていないことが原因なのですが、ここで感じた違和感に正直に、固定観念に縛られずに別の道に進むことを決断しすぐに実行に移したことが自分を生かすことにつながり、後々の人生の方向性を決定づけたと思います。

このまま日本で大学院生活兼病理診断学研修を続けることは自分には難しいと感じたため、米国で研修し医師になろうと決心しました。しかし米国で医師としてやっていくためには米国医師国家試験に合格する必要があり、得意とは言い難い英語の勉強も必要となります。そこで夏休み中に横須賀と沖縄の米海軍病院で各1週間エクスターンを体験し、インターンに応募しました。運よく沖縄米海軍病院でのインターンに合格したため、翌年の1994年4月から大学院を休学して沖縄米海軍病院で臨床研修を始めました。(次回へ続く)

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