分子病理疫学(MPE)2
分子病理疫学(MPE)について、具体的に私たちの研究室での研究成果の中からアスピリンと大腸癌を例にとって説明します。
1990年代より疫学研究の結果、アスピリンの常用は大腸癌のリスクを減らすということがわかっていました。アスピリンはPTGS2 (prostaglandin endoperoxide synthase 2, cyclooxygenase 2, COX-2)という炎症反応を引き起こす酵素の阻害剤です。一方、分子病理学の研究でPTGS2 (COX-2)は大腸癌の発生に深く関わっているということが、やはり1990年代より明らかになっています。そこで、この疫学の知見と分子病理学の知見を合わせることで“アスピリンはPTGS2 (COX-2)を阻害することで、大腸癌のリスクを減らす”という仮説が立てられます。
私たちの研究室では実際にこの仮説を検証することにしました。しかし言うは易しですが、仮説の検証をより的確に、より高い信頼性を持って行うためには、長年にわたる作業の積み重ねが必要でした。
まずは、全米に散らばっている大規模疫学コホートの参加者に発生した大腸癌を的確に把握しなければなりません。幸いにも私はハーバード大学の研究者が1970年代から進めてきた、併せて17万人以上もの参加者がいる2つの大規模コホートに関わるチャンスを得ました。これらのコホートでは参加者に2年毎に質問票を送り、食事、生活習慣、薬の使用、家族の病歴、健康状態、全身の癌を含めた病気など様々な項目について情報を集めます。質問票が返ってこなくなった参加者の名前はNational Death Index(全米死亡登録)にてチェックして死亡あるいは生存状況を確認し、そして死亡しているのであれば死亡原因の情報を集めます。そうすることによってコホート内で発生した大部分の大腸癌患者は確定できます。
このようにして従来型の大規模疫学研究では大腸癌のリスクファクターについて調べることができます。しかし分子病理疫学研究をするためには更なるステップが必要です。
次に大腸癌の組織検体をできるだけ多く集めて、PTGS2 (COX-2)の異常を調べることになりました。実際、私が2001年にハーバード大学のインストラクター(教員・研究員)に採用されたのは、これらの大規模コホートに発生した大腸癌の分子病理検査を進めることが主な目的でした。着任後最初の4年は検体集め、検体レポジトリーとデータベースの構築と設定、病理検査・分子病理検査の設定と遂行、そのデータの蓄積という大変地道な作業に費やすことになりました。
そして、ようやく約900例の大腸癌においてPTGS2 (COX-2)のデータを集め終わったのが2005年、そのデータを分析して長期にわたるアスピリン摂取とPTGS2 (COX-2)による大腸癌サブタイプのリスクの関係を調べることができたのが2006年です。我々はアスピリン摂取によりPTGS2高発現(すなわちおそらくPTGS2に依存している)サブタイプの大腸癌のリスクが低くなるというデータ、つまり我々の仮説(“アスピリンはPTGS2 (COX-2)を阻害することで、大腸癌のリスクを減らす”)に合致する結果を得ました。幸いその結果は2007年にNew England Journal of Medicineに発表することができました。
次に大腸癌患者の予後についても仮説(“アスピリンはPTGS2 (COX-2)を阻害することによって、大腸癌患者の死亡率を低くする”)を検証して、仮説に合致する結果を2009年にJAMA-Journal of American Medical Associationに発表することができました。
このように分子病理疫学による研究はたいへん手間と時間と労力を要することがわかります。もっと簡単に分子病理疫学の仮説を検証できないでしょうか? 例えば実験動物を使えばどうでしょう。もちろんそうした仮説検証はできますが、実験動物の大腸癌はヒトの大腸癌とは違いますし、大腸癌の微小環境にいる微生物や免疫細胞も異なります。ほかに例えば患者・対象比較研究(Case control study)という方法を使えば、もっと簡単に人間集団を使って分子病理疫学の仮説を検証できます。ただ前向きコホート研究と比較して、患者・対象比較研究は種々の弱点があります。これは疫学の基礎です。そこで私はたとえ時間と研究費がかかっても、より信頼性の高い前向きコホートを使った分子病理疫学研究に取り組んできました。
これらのアスピリン摂取と癌細胞内PTGS2 (COX-2)発現状況による大腸癌サブタイプの発生と進展に関する研究というのは分子病理疫学(MPE)の検証例のうちのほんの一部で、他にもたくさんの仮説が考えられ、検証してきました。例をあげるときりがないので、興味のある方は私のラボの公式ホームページページを見て下さい。
新たな仮説を検証する作業もたいへん楽しいのですが、それとともに分子病理疫学分野での仮説を検証に必要なデータ解析を進めるための統計学・疫学手法も開発し、体系化、標準化していかなければなりません。それが分子病理疫学という独立した学問分野の一つの存在意義でもあります。私は自分でも統計学を学びましたが、それにより、より高度な統計学の専門家と、共同研究することが可能となり、この独自の分野で方法論文をいくつか発表・公表しています。これについても詳しい研究内容は私のラボのホームページで見ることができます。そうして開発され公表された方法は世界中の研究者がタダで使えるので、方法論研究のインパクトは別に意味でたいへん大きいのです。
このように分子病理疫学 は新しい分野なので、何をやっても新しい発見と仕事の連続ですので、まさしく無人の荒野、未開拓地を行くがごとくです。毎日研究するのが楽しくて仕方がありません。
最近では分子病理疫学とゲノム科学、免疫学、微生物学をミックスし、統合するという仕事に傾注しています。詳しくはこれからの更新記事で触れていきます。