分子病理疫学(Molecular Pathological Epidemiology、略してMPE)1
私が提唱した新しい学問分野である分子病理疫学(MPE)について紹介します。MPEはこのブログのURLドメイン名にも使っています。
分子病理疫学は、いずれも私の専門分野である病理学(Pathology)と疫学(Epidemiology)を融合して誕生しました。私はこの統合分野の推進を提唱し、現在この手法を用いて大腸癌をモデルとした研究を進めています。
病理学は癌を含めたあらゆる病気の原因を追究する学問です。19世期以来病理学は人体組織と細胞の形態異常の観察をその一つの柱として発展してきました。癌に関しては1980年代より癌細胞の分子異常に関する研究が進み、癌は正常な細胞が多段階の分子異常を経て徐々に悪性化することで発生することが明らかになってきました。これにより分子病理学が発達し、特定の分子に的を絞った治療法や予防法の開発が可能になりました。
一方で、疫学もあらゆる病気の発生と進展を研究する学問ですが、病理学とは違う視点と方法論を持っています。特にここ数十年のトレンドとして、ライフスタイル(食事、喫煙習慣、運動、睡眠、住環境)や社会経済的因子等と病気の発生の因果関係の研究が疫学の一つの主体となっています。しかし、従来型の疫学研究では病因となるリスクファクターはわかっても、それがどのような分子異常や機序に起因しているのかを明らかにすることはできませんでした。
そこで、分子病理学による癌の分子異常に関する知見(“肺の細胞の癌化にはKRASの遺伝子変異が関係している”)と疫学による病因に関する知見(“タバコは肺癌を引き起こす”)をつなぎ合わせて、新しい仮説(“タバコはKRASの遺伝子変異を起こすことで、肺細胞の癌化を引き起こす”)を立てて検証することが出来るようになりました。こうした比較的新しい研究手法の体系化を目指すのが分子病理疫学(MPE)です。
2000年以前にも個々の研究者単位では病理学者と疫学者のコラボレーションは行われていましたが、両分野それぞれの知識や技術の統合が思うようには進んでいかず、新しい統合理論は生まれにくい状況でした。私は病理学医師・分子病理学専門医師として米国で専門医資格を習得した後、2010年にはハーバード大学公衆衛生学大学院(Harvard T.H. Chan School of Public Health、略してHSPH)で疫学修士を習得したことで両分野にまたがる専門知識を有することができました。そして私は病理学と疫学の自分自身の中での統合によって、今までに経験したことのない科学的視点が生まれてくるのを実感し、この統合分野が、病理学と疫学のみならず、もっと広域な医学生物学と公衆衛生学の発展に貢献できる(貢献しないといけない)ということを確信しました。そういう理由で私はここ10年来、雨にも負けず風にもめげず、分子病理疫学(MPE)の発展に尽力してきました。
こうした分野間の隔たりやギャップに関する問題は病理学と疫学だけでなく、昨今様々な分野間でも問題視され、科学のよりよい発展の障害となっていると考えられています。
日本人に身近な例として、日本では文系と理系とに分割するシステムとマインドセットが初等教育からあり、社会に根強くはびこっています。近年日本人から毎年のようにノーベル賞受賞者が出ていますが、ノーベル経済学賞を受賞した人はいまだかつていませんし、これからも現れにくいと思います。その理由はこの文系・理系の根強いギャップです。大学の経済学部にはふつういわゆる文系の高校卒業生が入りますが、文系の生徒には数学の苦手な生徒が多いのです。言うまでもなく数学は経済学の基礎です。文系・理系の二元論を廃止し、真に科学的で学際的な教育を直ちにはじめない限り、日本の多くの学問分野が世界的に重要な貢献をすることは難しいでしょう。
私はこうした大きな学問の問題の解決のために教育のシステムを変えるなどの解決方法を常日頃から考えています。このことについてはまた別の機会にまとめたいと思います。
次回は我々の研究室でのMPEの具体的研究成果について書こうと思います。